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津久井のご紹介

[津久井の言い伝え] 

1
大自然の恵み豊かな津久井 戦中戦後のスケッチ
2
正覚寺の「狸和尚伝説」
3
正覚寺の夜泣き地蔵」
4
山梨県南都留郡道志村の言い伝え 「厳道峠と久保商人の話」
5
山梨県南都留郡道志村と神奈川県津久井郡相模湖町の言い伝え 「阿弥陀様と地名にまつわる話」
6
石老山顕鏡寺の伝説 岩若丸の悲劇とよみがえりの物語
7
大きな蛇と愛犬との死闘を見た人の話
8
柳田国男先生と正覚寺の話
9
勇気ある地元山岳会員のお手柄
10
「ヘリコプターによる空からの救助作戦」の提案
11
撚糸の町・半原物語
12
相模ダム(相模湖) 建設工事に捧げた先輩に感謝
13
相模川今昔物語
14
.津久井の地名唄巡り
15
孫の笑顔は宝物
16
闘病記・医者に見捨てられて
17
篠原の里の名刹  「月見山福壽院」
18
「地震峠」の教訓を生かし日頃の備えを
19
岩崎吉太郎作品集「湖かがやく」のこと
20
照手姫伝説が残る里
21
.どんと鯉・鯉釣り天狗
22
刻印付き半鐘は地域の宝物
23
.「春の女神 ギフチョウ」を大切に!
24
.幼い日の思い出
25
若き日の夏の思い出
26
地名探求の楽しみ
27
わが町の大名行列
28
私の故郷は道志川下流の「三太の里」 (1) NHKラジオ ひるのいこいで放送されました
29
幼い命の誕生に乾杯 NHKラジオ ひるのいこいで放送されました
30
初夏の訪れを告げる蛙の合唱 NHKラジオ ひるのいこいで放送されました
31 東北関東大震災に思う
32 道志川の夏
33 ボート遊びに来た親子と出会った話
34 梅や桜の花芽がようやく満開

 

相模川今昔物語
井上勇さん〜船大工としての人生
 神奈川県の北西部に位置する相模原市在住の井上勇さんは、山中湖を水源とする相模湖の水と山梨県南都留郡道志村の山伏峠を水源とする道志川の合流点近くの相模湖町沼本に船大工の父、新七さんの四男として生まれました。井上さんの家は合流地点から百五十メートル程上流に一軒だけボツンとありました。「船を川から引き上げるのに便利だった為の先祖の知恵だった」と勇さんは話します。沼本にいたときは木材の運搬などで生計を立て、津久井町名手地区から丸太を船に積んだり、相模湖町の千木良地区からも筏 (いかだ) を組んで運んだそうです。

相模川の帆かけ船(大正10年頃)写真は相模原市提供 昭和十五年、井上さんが八才の時に沼本ダム (調整池) の工事が着工し、ダイナマイトの音も日増しに大きくなり、住宅地まで岩石が飛んできて窓硝子を壊すなど危険でした。その為、井上さん一家は、自家所有の四十四〜五名乗りの大型舟(遊舟)四艘に家財道具を積み込み、移転先の城山町小倉を目指して川を下りました。当時、小倉橋の建設工事も行われておりダイバーの方が作業をしている様子を横目に見ながらアーチの下を通り抜け、橋の千メートル近く下流の移転先に着きました。小倉橋から下流の相模原市磯部までの沿岸には、今からざつと二百年前までは三十軒ほどの家がありましたが、明治中期の大水で家屋を流された十二、三軒が上流の方に移転したと伝えられています。井上さん一家はこの集落で生活を始めたのです。
 戦前、戦中、戦後と楽しい時代もありましたが、戦中、戦後は非常に大変な時期もあったそうです。井上家は数少ない船大工をしながら鵜飼いなどの仕事も兼ねていました.勇さんが子供の頃、父親の新七さんは船の修理のため厚木、伊東、熱海等々に出かけることも多かったそうです。修理によっては自宅まで持ち帰り、朝三時〜四時には仕事を始め、長さが八メートル、幅九十センチ、深さ四十五センチの船を三日半で造るほどの腕前でした。そのためお客様からの信用も厚く、遠方からの注文も多かった訳です。
 勇さんが船大工として修行を始めた頃、新七さんは父親であり厳しい親方でもありました。勇さんは一艘作るのに一週間はかかり、電気をつけて仕事をしていると叱られ、同じことを二度訊くと「何度も同じことを訊くな」と、すぐに鑿(のみ)等の道具が飛んできてとても怖かったと話します。当時の職人の中には同じような体験をされた方が多かったようです。叱られても叱られても、おしんのように耐えて耐えて仕事を体で覚えたのです。職人に忍耐強い方が多いのはその為でしょう。今の時代では考えられないほど大変だったことが推測されます。父親の新七さんと一緒に船を造っていた当時、賃金は普通の人の二倍はどで、「注文主が代金を払ってくれさえすれば、半年働けば十分に生活できました。」と笑顔で話す。小倉に桂川(けいせん)会という会があって、鵜飼いをしたり、相模湖から荒川下りをして小倉橋や更に下流の田名で客を降ろしていました。
 その当時の船は風を受けて走る帆掛船で、その雄姿を伝える写真は今も残っています。かつては生活物資や木材などを積んで相模川を行き帰りする重要な運搬手段でした。風の強いときなどは強いカーブを曲がり切れないので陸(おか)を風の力で走ったこともあったといいます。四本の紐で風の方向を調整して走る原始的な形でした0布製の帆は長さ五メートルにも及び、戦争中は着る物が無いので裁って着物に仕立てられたこともあります。
 昭和三十年頃になると、東京から中央線と横浜線で橋本まで来て、タクシーに乗り小倉橋へ足を運ぶ企業の社長さんや歯科の先生などが多くなりました。新七さんは歯科医のお客さんの一人に一夜で歯型をとって歯を入れて頂き、やればできると大喜びしたことがあるそうです。
 船造りの方は、昭和三十四、五年頃から、納品してもお金を払い切らないうちに「お金がないから」と支払を断られたりするようになりました。注文主はお酒を一升お清めに持って来るだけで、その上材料費も自分で負担し二十艘請けて一艘しか売れないのでは採算が合いません。また、魚が捕れては祝い酒を出し、捕れない時には自棄酒を飲ませるという具合で、仕事にならなくなりました。こうして、昭和三十六年に勇さんは船造りを止め、昭和三十七、∧年頃から車社会化が進み、漁をする人も少なくなり、商売そのものが成り立たなくなりました。
 勇さんは全部で五十艘ほど造ったそうです。お話によりますと、船を造るための木材は杉材が多く、白身(白い部分)を使用するとすぐに腐ってしまうので赤身の部分を使用するといいます。樹齢百十年以上の大木でないと造れないのですが、現在では百年以上の大木を持っている方は少なく、近県にも船を造るのに良い材料になる木が無いそうです。また、「昔の相模川はスイカのような匂いが凄かった。ドジョウ・カジカ・ウグイ・カワウソ等もいて、大きな石も多かったが、最近は川の汚染や環境破壊等、ダムから放流される湖底の冷たい水などの影響で魚も住みにくくなった。川幅は昔と変わらないが、今は魚が十分の一くらいになってしまった。釣り人のマナーも悪い。最近はにわか漁師が多くなり、昔は釣り船同士が五十メートルは離れていたが、今は十メートルも釣糸を出せば大騒ぎだ。自分さえ釣れれば良いという時代になった。」と苦笑いします。現在でも釣り船に興味を持つ方があり、中古品がないかと訪れる客もいますが、「船の漕ぎ方を知らない人には売れない。船を造る気にもならない。」と言って断るなど職人気質をのぞかせる。
 父親の新七さんは相模川はもとより、相模湖の船のほとんどを造ったそうです。昭和二十九年十月八日、麻布中学の生徒を乗せた船が沈没したことがありますが、その原因を勇さんは「定員オーバーと、後部より乗船させて突然発進させた為、船の構造上前方が急に上がり、後部から水が入り沈没したのではないか。」 と話します。
 新七さんは、長年その道一筋に働く技能功労者の方々に相模原市より贈られる表彰への推薦の話しもありましたが、八十三歳と高齢であることと体調を崩して床についていたこともあり、お断りしたそうです。
 このように、我が町津久井は相模川を中心に栄え、行き交う船を利用して平塚方面からも海産物を持ち込む等、船無くして現在の繁栄を語ることは出来ません。その源を探れば江戸に近く、文化的な条件にも恵まれていたという時代背景もあると思います。具体的な考究は別の機会に譲りますが、津久井にも立派な技術を持った船大工がいたことをもっと多くの方々に知って頂き、井上家の船大工の技術を次世代に語り継いで頂くことを心から願っています。

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